道北・宗谷本線の旅について、わかりやすく解説してゆきます!
宗谷地方の地理・歴史などを、やさしく解説してゆきます!
幌延駅を出て、抜海・稚内方面へ
幌延駅(北海道天塩郡幌延町)を出ると、
- 下沼駅(北海道天塩郡幌延町)
- 豊富駅(北海道天塩郡豊富町)
- 兜沼駅(北海道天塩郡豊富町)
を過ぎてゆきます。

兜沼駅(北海道天塩郡兜沼町)
この辺りから、本格的に宗谷地域を進んでゆきます。

宗谷地方の原野(宗谷本線)(北海道)
そして窓の西には利尻島・利尻富士の景色が広がります。

宗谷本線・利尻富士の景色(北海道)
やがて、ついに稚内市に入り、
- 勇知駅
- 抜海駅※廃止
- 南稚内駅
を経て、日本最北端の駅・稚内駅に至ります。
下沼駅の由来となった、パンケ沼
幌延駅を出ると、ほどなくして
- 下沼駅(北海道天塩郡幌延町)
に着きます。
下沼の由来は、駅の西2kmほと隣にあるパンケ沼にあります。
パンケとは、アイヌ語で「川の下側(下流部)」などの意味になります。
つまりパンケ沼はサロベツ川の下流部にあたる湖であるため、パンケ沼と呼ばれるわけです。
一方、サロベツ川の上流部にある湖をペンケ沼といいます。
ペンケとは、アイヌ語で「川の上側(上流部)」などの意味になります。
そのパンケ沼が川の下の沼ということで、日本語に意訳して下沼と呼ばれるわけです。
これがいわゆる下沼駅の由来となっています。
道南・函館の近く(七飯町/ななえちょう)にある大沼も、アイヌ語の「ポロト」に由来しています。
- ポロ(幌)→大きい
- ト→沼
で、「大沼」です。
このように、アイヌ語を少し覚えておくと、北海道の地名の由来が推測できたりして、面白いといえます。
明治時代に「宗谷郡」と改められた、宗谷地方
この地域は、明治時代には宗谷郡と呼ばれました。
郡とは、奈良時代の律令制における国よりも小さく細かい区分けになります。
もちろん現代でも「郡」はありますが、当時とは意味合いがそもそも異なり、当時のように「郡衙」「郡司」のような中心機関・首長はいません。
ちなみに「郡衙」「郡司」とは、それぞれ現代でいえば「郡役場」「郡長」のようなものです。
現在の「市役所」「市長」みたいな感じですね。
けれども現代では「郡役場」「郡長」などは存在しないですよね。
なので、現代の郡よりも、当時の(奈良時代の律令制における)「郡」というものは、かなり意味が大きかったのです。
松前藩と、宗谷地方に置かれた「ソウヤ場所」
宗谷郡域は、江戸時代には松前藩によって支配されてきました。
松前藩とは、函館の南西にあたる松前町を拠点としていた、江戸時代の藩です。
この松前藩が、蝦夷地とアイヌ民族の管理・統括などのお仕事をしていました。
そして、
- 利尻島
- 利尻島の北西にある礼文島
- 樺太
あたりを支配・統治するための拠点が、江戸時代の宗谷(つまりこのあたりの地域)に、まず置かれました。
商品を物々交換するための「ソウヤ場所」
そして、松前藩とアイヌ民族が交易(つまり、お互いの持っている得意な商品を、物々交換すること)するための「ソウヤ場所」というものが開かれていました。
江戸時代には、松前藩とアイヌ民族は「場所」とよばれる場所で、商売・交易を行っていたのでした。
しかし、トータル(全体)でみると、
- アイヌ民族がもらえる物の量
よりも、
- 松前藩の取り分
の方が多かったため、これにアイヌ民族は不満を募らせ、そのため江戸時代には「シャクシャインの戦い」に代表される反乱が多かったのです。
シャクシャインの戦いについては、以下の記事でも解説しているため、ご覧ください。

宗谷が幕府の天領へ 江戸幕府は、いかにして北海道北部を守ろうとしたか
ロシアの南下政策への対応
また、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備えて、江戸時代後期には宗谷郡の地域は天領とされました。
南下政策とは、江戸時代後半あたりからロシアが凍らない港を求めて、暖かい地域の港を求めて進ていたことです。
ロシアは冬は-20度は普通に下回る極寒の地域なので、凍らない港を求めて南下していたのです。
その真っ先にターゲットになりそうだったのが、まさに北海道(蝦夷地)だったため、幕府は脅威を感じ、宗谷郡を天領とし、北海道の防衛にあたらせたわけです。
天領とは、幕府が直接支配する土地という意味です。
つまり藩に統治させる(任せる)のではなく、幕府が自身で直接支配するということです。
なぜ幕府は、宗谷郡を天領としたのか?
では、なぜ幕府は、宗谷郡を天領としたのか。
もし仮に「宗谷藩(?)」が存在していたとしたら、何らかのきっかけで宗谷藩と江戸幕府が対立したときに、ロシアや他の国と結託して(タッグを組んで)幕府に反乱・攻めてきたらヤバいですよね。
しかも宗谷藩は幕府から遠すぎるし、今でもそうですが稚内市にはロシア人とも交流があり、仲が良いほどです。
なので、もし何らかのきっかけで日本(幕府)とロシアの関係が悪化し、また幕府と宗谷藩の関係までが悪化したら、宗谷藩は幕府に反感を持つため
「ロシアと宗谷藩が結託して幕府を攻め落とす」
などという最悪のシナリオも考えられます。
なので宗谷郡には「宗谷藩」のような藩を置かず「天領」にしたものと思われます。
例えば、鹿児島県を本拠地としていた薩摩藩も、外国に近く幕府から遠いことから(幕府から)信頼されていませんでした。
そのため、参勤交代や公共工事などを通じて甚大な労力・費用の負担を強いられ、財力や勢力を削がれていたのです。
幕府から北海道の警護を任命された、津軽藩
そして江戸時代の後期に、青森県弘前市を本拠地としていた津軽藩が幕府から北海道(蝦夷地)をロシアから守ることを命じられました。
そしてその津軽藩が、ソウヤ(宗谷地域)に出張陣屋を築き、北海道北部の警固に当たることとなりました。
陣屋とは、お城の軽い(簡易な)バージョンのことです。
江戸幕府は先述の通り、幕府への反乱を起こされることを何よりも恐れていたため、そうした軍事的な理由によりそう簡単にはお城を築かせませんでした。
なので、陣屋という簡単な拠点しか作らせなかったのですね。
なぜ江戸幕府は、城の建設を制限したのか?
なぜ江戸幕府がお城を建てるのを制限したのかについては、先述の通り幕府に反乱を起こすための攻撃の拠点・基地とされてしまったら困るからです。
つまり「軍事上の理由」ですね。
なので、江戸時代は静岡(駿府)や名古屋(尾張)など、徳川家と関係が深く、また将軍からの信頼が厚い土地にしか、お城を築かせませんでした。
もし仮に、幕府が宗谷郡に「稚内城」などを建てることを許可してしまい、しかも先述のように「宗谷藩」という藩を認めてしまったらどうなるでしょうか。
もし宗谷藩(仮)と幕府の関係(それに加えて、ロシアと日本の関係)が悪化したときに、宗谷藩とロシアが結託して(北海道を拠点に)江戸幕府に攻めてくることは充分考えられます。
このとき宗谷藩(仮)のバックに強国・ロシアがついていたら、江戸幕府はもはや勝てるわけがありません。
なので江戸幕府は、そのあたりのバランスを考えながら、宗谷地域を「弱くなりすぎず」(反乱起こさないように)「強くさせすぎず」という、絶妙なバランスの戦力にさせていたわけですね。
江戸幕府は、あの手この手で、大名の力を削いでいた
宗谷藩(仮)は江戸幕府から遠すぎて完全に「外様」ですから、力をつけさせずきてはいけません。
先程も述べた通り、江戸幕府(東京)から遠すぎた鹿児島県の薩摩藩なども軍事力をつけさせないように、(河川の工事を無理やり負担させるなどして、また参勤交代なども含めて)徹底的に財力を削がれていました。
普通に考えて、鹿児島県(薩摩藩)から東京(江戸)までの長すぎるルートで参勤交代をしたら、新幹線も飛行機も無い時代なので、大名や付き添い・護衛の大勢の武士の旅費・宿泊費・人件費などを含めて、甚大な費用がかかりますからね。
北海道の警備と、津軽藩士殉難事件
このようにして江戸時代には、北海道がロシアに攻められないように、
- 津軽藩(現在の青森県弘前市)
- 盛岡藩(南部藩:現在の岩手県盛岡市)
- 会津藩(現在の福島県会津若松市)
といった東北地方の藩らに対して命じ、道北やオホーツク海の周りの警備・警固にあたらせました。
そうして寒い寒い北海道の警備に回された各藩の武士たちでしたが、あまりにもの(本州には無いような)寒さに耐えきれず、津軽藩の武士たちが次々に倒れていくという、津軽藩士殉難事件という事件も起きています。
明治時代になって、蝦夷地は「北海道」と改められました。
そして、それまでの日本では当たり前だった律令制における「国」「郡」といつた制度を踏襲し真似する形て、宗谷郡が置かれることとなりました。
次回は、抜海駅(廃止)へ
次は、現在は廃止された抜海駅ならびに、稚内の方面へと進みます!
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